『風立ちぬ』感想
ネタバレがある。
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まず、「生きねば。」はポスターでもCMでもプッシュされているこの映画のキーフレーズであるのだけど、これは決して「メッセージ」ではない。というか、『風立ちぬ』にメッセージ性は特にない。教訓映画ではない。
だが、「私も生きなきゃ〜〜って思った」っていうゆるふわな感想はたぶんこの映画にはピッタリな感想だと思う。ユルいかどうかは別として、『風立ちぬ』はふわふわとしたファジィな映画だから。
これだけ読むと、中身のない映画扱いだと批判的に捉えられるかもしれないが、僕はこの映画好きである。ただ、そういう観方として好きなのではない。すごく(教訓的に)いい映画だった!とは言いたくないわけである。
この「生きねば。」というキャッチフレーズを教科書的に解釈せんと映画全体を観たならば、おそらくは「戦争に向かう中の技術者の苦悩や葛藤、それを超えた先、創造的十年を超えた先にどうすればいいのか?人は生の奔流に身悶えながら生きねばならない」「愛に生きた。本当に愛する人だった。愛する人は逝ってしまった。だが、今こそ、生きねば。」という解釈になるだろう。
だが思うのは、そういうことを言うための「生きねば。」ではない、と思うのである。
僕はこの映画を、これまでのジブリ映画のような「生の素晴らしさ」を描いた映画ではない、と思うし、逆にいろんな人の言う「生の残酷さを刻々と描き出している」ほうが、まだ近いとは思うけど、やはりそれも少し「慧眼的」すぎる気がしてならない。
この映画は非常に"勝手"な、言ってしまえば宮崎駿の自慰的自伝のような映画なのであって、(何度も言うが、僕はこの映画は好きである。こき下ろしている文面ではない)、強いて言えば作中に言える「創造的時間」の一例、宮崎駿の思う、作り手の『○○馬鹿』的一面、言ってしまえばそういう人間の「おかしさ」を描いている。「狂気」と言い換えてもいい。
あんまり理系はこうだ文系はこうだと二分論でいうのは好きなのではないけれど、これはまさに「理系バカ」を描いた映画であり、ヒューマンドラマ、というよりは、「理系バカ」という、いわゆるドラマなどで描かれる「ヒューマン」としての感動から外れた、「堀越二郎という飛行機馬鹿の変人」の半生を描いたものである。予告編の言うとおりに。だから、「堀越二郎と菜穂子」を描いた愛のドラマでも、「堀越二郎という技術を求める技術者。その技術が戦争に使われる」苦しみのドラマでもなく、「堀越二郎と飛行機」というドラマである。そして「堀越二郎と爆撃機」ではない。
『風立ちぬ』は「こういう飛行機馬鹿がいたのさ」という映画であって、「この男の半生を見よ。生とはかくも残酷なものである、…だが我々はこの残酷な生を生きねばならぬ」かと言われると、ちと違うんじゃないかなあ、と思うわけだ。
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全体を通した二郎への印象として、「行動があまりにも淡々だ…」と思ったのは、そういえば二郎の葛藤するところが全く描かれていないのである。菜穂子との関係の在り方、自分の生み出す技術と戦争、その中で特に二郎は葛藤をしていない。描かれていないのかしていないのか、という点で違いはあれど、どちらにしろ「葛藤」を描く映画ではない。
生の残酷さという壁で葛藤する男、ではない。戦争礼讃はもちろん平和主義を唱えてもいない。堀越二郎は「ただ飛行機を作るだけ」の人である。それは妻との関係でも同じで、作中で加代が「薄情だ」と詰ったのは、まさにその通りである。二郎は「飛行機を作るだけ」であって、「愛に生きた」人間として描かれてはいない。ただ、菜穂子との愛を否定するわけでは毛頭ない。
菜穂子はいい女である。結婚したくなる。
菜穂子は、「理想的女性」のように描かれている。ここでいう理想、とは、男性から見た、「こういう女と恋愛したい!結婚したい!」という「理想的女性」ではなく、若干二十歳の僕が想像するに、おそらく昭和初期の男女観の上に立つ、俗に言う「美しい亭主関白夫婦」として理想的、あるいは絵空的に描かれたとさえ言ってもいいくらいの「いい女」である。
これについては、前田有一が「こんな女いねーよ!」と言い、それに対して「童貞(笑)」と岩崎夏海が言ったらしい。僕は、菜穂子のような女性は「あまりいない。少なくともスタンダードではない。あー、昭和初期だしなあ…『昭和初期を描いた作品に出てくる強い女性』って、こうだよなあ」と思っていた。
この前田有一は二郎を「正義感に溢れ弱気になわず前向きな優等生。パズーと変わりない子供向けアニメのステレオタイプ」と評している。「はあ???????」と思う。まず、どう見ても二郎は正義感に溢れてなどいない。別に善悪にうといとか偽善的とかそう言いたいのではない。彼は「飛行機馬鹿」として描かれていて、戦争を推し進める、人を殺す技術だ、とか、そういう点で苦悩も何もしてない、「なんか戦争に使うらしい」程度の認識しか見いだせない。別に戦争主義なのではないだろうけど、昭和初期の日本人として想像すると、リアルな戦争観かもなあ、と思う。二郎はそんなことより「飛行機をつくる」馬鹿なのだ。そして、前向き、というのも違う。飛行機のことばかり見ている、と思う。(菜穂子のことは?という点については後述)。弱気にならず、というのは、字面としては合ってるが、言わんとしていることは違う。「別に弱気になることもなく」「飛行機を作る」のである。「めげない強さ」は描かれていない。
「日本で最重要兵器たる戦闘機を開発する成人男性としてはあまりに非現実的に見える」とも書かれているが、二郎はあくまで「戦闘機」を作るのではなく、「飛行機」を作っている男なのである(これは観客としての僕目線ではなく、二郎目線で)、ここで戦争という巨大すぎる存在と自分の仕事との関係を繋げて苦悩するのは、先述したとおり「この時代の日本人」としては逆にリアルじゃない、気がする。本庄に関してもそうだ。彼らが戦争に関して無知蒙昧である、のではなく、結局は"民間技術者"としての感覚はこういうものなんだろうなあ、と思う。まして二郎は「飛行機馬鹿」である。
「戦争に加担している」という認識で作っていたわけでもなく、そもそも戦争自体への認識自体、「破裂だな」の下りで表れていると思う。
菜穂子に話を戻す。
僕は菜穂子について「リアリティがある」とは思わなかった、というか、現実の人というには、あまりに…「美しい亭主関白」という(夢?)物語の登場人物に名前が与えられたように描かれているなあと思った。
菜穂子のエピソードは堀辰雄の『風立ちぬ』が原作であるという。ここで謎が解ける。映画『風立ちぬ」においては、結核女性というキャラクター設定しか受け継がれていない。原作では夫は病院に泊まり込み、そのあと仕事を再開してからも、妻を実家に置くことはなく病院通い、なのである。これだったら加代は「薄情だ」とは言わないだろう。仕事と妻、塩梅のいいところでどちらも車輪を回しているように思える。
だが映画ではそうではない。エゴイスティックと言われかねない行動である。妻が「私はこの生活に満足している」と言っているのは堀辰雄の原作でも変わらない。
では、この変更点はどういうことか?病院通いという設定にならなかったのは、飛行機の仕事が佳境だったという点で「物語内の整合的に」、そして、「演出」という面で、二郎の「飛行機馬鹿」っぷりを描くためだと思う。二郎は妻を心から愛し思っているけれど、それでも飛行機を作る。二郎の中で、ここには"ささやかな"矛盾があって、結局飛行機を選んでいる、のだと思う。矛盾はあるけれど、菜穂子のことを精いっぱいに愛して、「僕たちは一日一日を大切に生きて」いて、菜穂子は「あなたは仕事をしてください」。傍目から観ると二郎は薄情かもしれない。だが、二人は二人の中で「毎日を大切に生きている」。加代が「薄情」といい二郎がそう返すくだりは、観客が持ちうる「二郎、ちょっと薄情かも…」という不穏なよぎりを代弁すると同時に、これは愛し合う二人の黙した関係ですよ、と「消化している」。そういうシーンだと思う。
そういう意味で、菜穂子と二郎の愛の関係については、すごく「閉じた」描き方がされている、と思う。僕たちの愛の在り方はこうです、というように。
最後の菜穂子が去っていくシーンも含めて、二郎も菜穂子も、「二郎の飛行機馬鹿」に"お互いに"納得、理解した関係であり、それはその二人以外には薄情に見えるかもしれないし、菜穂子の行動も、加代が止めようとしたのは、それが一つの「エゴイスティック」であったかもしれない。女としての美学でありまたエゴイスティックでもある、角度によって変わるそれである。
ここから、「死ぬことの意味を問うと同時に、死を越えて生きることの意味を問う」という「生きねば。」だとは思えない。
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じゃあこの「生きねば。」ってなんだろう?と考える。
ここで「創造的な時間は十年」である。繰り返すが『風立ちぬ』は「飛行機馬鹿」堀越二郎の半生である。エンジニアとしての「まっしぐらっぷり」を描いた、宮崎駿という「作り手」が、自身という「作り手」向けに作った、「作り手」を描いた映画だと思う。これが宮崎駿の「しめくくり」としたり、「アニメと飛行機、作ったものは違うしもちろん具体的なエピソードも違うんだけおd、創造的時間を駆け抜けた人間としての自身の走馬灯」映画と捉えることもできる。
だからこの男、(理系)エンジニア、○○馬鹿、を代表して描かれる堀越二郎、は「薄情な変人」なのだ。その薄情な男の恋愛として、そのエンジニアとしての薄情を理解して寄り沿い愛した女性、菜穂子が描かれている。
ちなみに、薄情と書いたが、二郎は"普通に"やさしい。ひもじい子供にも、事故に巻き込まれた女性にも救いの手を差し伸べる。だがこれは、「俺が助けなければ」という正義感とは少し違う。「お困りでしょう、お手を貸しましょう」である。飛行機馬鹿だが人間である二郎の、飛行機とはさしてかかわりのないところで表出した「薄情でなさ」である。
ではなぜ二郎は、理系エンジニアは、薄情になるのか?愛する人にも、家族にも、薄情になるのか?それは飛行機馬鹿であり、○○馬鹿であるからである。家族には申し訳ないと思っていて、菜穂子のことをどうとも思っているわけではない。だからといって、「心を鬼にしている」のではない。馬鹿なのだ。エンジニアは馬鹿になってしまうのである。「無視している」のとも違って、人間的な部分と、エンジニア、飛行機馬鹿としての部分(こう書くと、エンジニアやクリエイターが非人間であるみたいだが、そこも『風立ちぬ』で描かれる、「作り手」の姿なのだと思う)のささやかな矛盾を抱えているのだ。その結果として、「菜穂子を療養所にも置かず家に残す」という、「静かにも異常」な関係になる。
だが何度も言うが、菜穂子はそれを「受け入れて」「理解した」妻なのである。
はたして、その二郎が、人間的なやさしさに後ろ髪惹かれながらも、菜穂子との矛盾を閉じ込めた生活をしながらも生きた「創造的時間」は、零戦の誕生を以て終わる。ここで、戦争と話をからめる気はさらさらない。二郎は「ずたずたでした」と述べているけれど、これは戦争へ技術者として加担してしまった後悔か苦悩の台詞ではない。そういた平和主義を込めた台詞でもなく、淡々と二郎自身が「結果を述べた」台詞なのである。最後の作品は戦争に使われてしまったな、帰ってこなかったな、ずたずただな、という感想である。
創造的時間を終えた二郎に、夢の中で菜穂子が「生きて」と言い、「ありがとう」と二郎は返す。ここで「生きねば」である(そういうカットは入らなかったが。カプローニが「君は生きねばならない」と言った)。
飛行機馬鹿として駆け抜けた十年が終わった今、どうするの、となって、じゃあ、「生きねば」と二郎が答えるのである。それは菜穂子を死なせてしまったから出た言葉かもしれないし、(最後のシーンが二郎の夢なのだとすれば、菜穂子の幻影は二郎の意思を代弁して二郎自身に伝えたのかもしれない、とも受け取れる)まだ作り手としてあがく、という意思なのかもしれないし、とにもかくにも、二郎の選択は「生きる」なのである。だって、「仕方ない、死のう」とはなかなかならないもの。
そういう意味で、この「生きねば。」に「メッセージ性」を探るのは違和感があるな、と僕は思ったわけです。創造的十年を終えて、飛行機馬鹿二郎は生きることにしました。終わり。だと思う。「生きねばならないよ我々は」ではなく、「二郎は、生きねば、と思った」までしかない。
それに、○○馬鹿に該当する観客はズバッと心を射抜かれる、というか、人がそれぞれ、程度の差はあれど持っている「○○馬鹿」な部分に響いたりして、「観客は勝手に感動する」のである。特に二郎と似たような○○馬鹿(いわゆる"理系"に多いんだろう)は、「こうなんだよ、そうなんだよ」と、エンジニアの宿命や自分たちの持つ薄情さ、そこから生まれる物語を改めて認識させられて、大いにやられる、というわけである。でもそこにはメッセージ性はなくて、「じゃあどうするの?二郎の答えは『生きねば。』だったけど…」になる。
ただこのクリエイター的宿命を、「残酷」「鬼」と言うのは少し違う気もするんだよな。
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そういうわけで、これから作り手になるだろうけどあんまりそのエンジニア・クリエイター的宿命を自覚できていない若干二十歳の美大生である僕としては、今のところ「ドンピシャで射抜かれる」というよりかは、「予感させられた」作品であった。そういう意味で結構『風立ちぬ』は好きだし、BD買って、いつか観ようかなあ。
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追記。
そういえば、この前テレビで、『風立ちぬ』の音楽特集があって、そこで久石さんの録音風景のあとに、宮崎駿と庵野、ユーミンの軽い座談会の様子が紹介されてたんだけど、「一旦作ったラストを庵野にボロクソに言われて直したら良くなった」って宮崎駿が言ってた。もともとのラストってどうだったんだろう。
庵野の声は個人的にはなかなか良かった。そりゃあ「声優」「演技」としては下手なんだけど、「作り手」として、宮崎と同じアニメの作り手であり一種の"馬鹿"である庵野の感情のこもってないような棒読みのような「変な声」が合ってた(別のインタビューで、宮崎駿が庵野の声を「変な声してる」って言ってた)と思う。棒読みが嫌な人もいるだろうけど、僕はあの「棒読み」な感じが「堀越二郎」というエンジニアっぽいなあと。
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