【『かぐや姫の物語』がスゴかったことをただ延々語るだけの長ったらしい話】








『かぐや姫の物語』を今頃になって観てきた。とりあえず去年の秋ごろに公開されて以来、「つまんねえ」とか「expanded日本昔話」とかいう酷評を聞いたあとに、美術手帖やユリイカの特集を読んで観たくなって、とまれかくまれ観ようということで観た次第であります。

すごかったよーー。

一緒に観たクラスメイトと「うん、好き嫌いとかじゃなくすごいとしか言いようがない」みたいな感想を言い合ってたんですが、どうせなら今のうちにぐだぐだ話せることを話してみようと思う。




第一章はどういう作品だったかということ。
第二章はどういう物語だったかということ。ここからネタバレがあります。
第二章の方がめんどくさい話をしています。




★第一章★ 「かぐや姫の物語」というソニマージュ

『かぐや姫の物語』は事前では大きく2つの点がフィーチャーされてまして、一つは「水彩タッチの斬新な表現」であること、もう一つは「古典である竹取物語を題材にしている」こと。つまり、「誰もが知ってる昔話を水彩タッチで表現した映画!!!!!」みたいな宣伝がされていたわけです。そういうイメージで観に行くと、「あっあの宣伝じゃ全然不十分だ、この映画を説明できてない」と思うし、そして「でもああいうしかないな、こりゃ…」って思える映画だったわけであります。

文字通り、「竹取物語を水彩タッチで表現した!」映画であるのはそう文字通りです。だから、美大生はじめ「絵の超絶技巧を味わおう」(水彩でアニメーションをするのはとんでもないことでしょう)と言う人が周りに多く、事実美術手帖の特集を読んだ後の僕もそんな感じだったんですが。ともかく、観てるうちに絵がどうとかどうでもよくなってしまった。
そう、「絵の技術がどうとかどうでもよくなってしまう」。

のはなぜでしょう?


ジャン・リュック・ゴダールというフランスの映画監督がいます。
代表作は「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」「ゴダールの映画史」などなど…ともかく大監督です。存命です。

この人の作った言葉に sonimage(ソニマージュ) という言葉があります。
「movie」(まあフランス語ではfilmなんですけど)ではなく、映画は「sonimage」なのだと。
movieとは文字通り「動くもの」です。ムーヴィー。
sonimageとは、son + imageであり、sonは音声、imageは映像。映画は「映像×音声」なのだ!と。受け攻めの話はまた今度にしてください。

そう、映画は「ただ(絵が、音が)動くもの」ではなくて、「映像と音声が一体となったもの」だ!ということを込めて、ゴダールは映画をソニマージュと言ったのです。
僕はさらに「ストーリー」、物語がここに加わり、「映像×音声×物語」が混然一体となったものが「映画」なのだろう、と思うわけです。


そして、言ってしまえば『かぐや姫の物語』はまさにソニマージュなのだと。映像と音声、物語が一体となった作品なのだと。
かぐや姫の物語について、映像、音声、物語について注目することが3つあります。

映像については、先述の「水彩タッチで描かれた」ということ。
水彩タッチの効果として、「ふわっとする」ということが言えます。ふわっとするってなんだよ、大体わかるけどなんだよ、という声に応えて表現を変えれば、「曖昧」な部分が、セル作画より多くなる。輪郭は消失し、にじみがうまれ、表現は簡略化される。この"デフォルメ"は、いわゆる"アニメ"で行うデフォルメとは少し意味が異なってくる。
それは「具体性を下げる」あるいは「抽象性を上げる」という効果です。

事実そこにあったものを写しとったというデフォルメではなく、「自然」「姫」「翁」「屋敷」を、ふわっと「やや抽象的に表現」している。これが水彩の効果です。というか、水彩タッチの効果かもしれない。

そして物語。
古典の「竹取物語」をほぼ忠実になぞっているのですが、そもそも古典の物語、いわゆる民話・昔話、西洋まで含めれば童話・神話というものは、とてもprimitiveプリミティヴです。ヌーヴォー・ロマン以降の、「いわゆるこれこれこういう人のある意味historicalな物語」ではなくて、もっと抽象性の高い物語。だから教訓的だとか言われるんです。

ちょっとこれだけだとわかりづらい。

例を挙げます。
『白雪姫』ではまず魔女が「世界で一番美しいもの」を問いかけるのが「鏡」だというのは、「おはなし」として聞き流しているけれど、とっても面白いです。
鏡に映るのは自分です。精神分析に鏡像段階という言葉があって、人間はまだ神経が未発達な赤ちゃんの時に、鏡に映る自分の姿を「これが俺(自我)だ!!」と認識して、「自分」を手に入れます。これを自我の「他者への疎外」というんですが、それはまた今度。ともかく鏡に映る姿こそが自我なのです。(この話はめっちゃはしょってるのでそのまま鵜呑みにしないでね)

そういう自我こそが「コンプレックス=劣等感」の問いに答えてくれる。そのコンプレックスを補償するのが毒リンゴ、というように、そういった人間の精神システムを示唆しているのがこの童話『白雪姫』です。

昔話は「寓話」とも言います。
寓、とは「他の物を利用して気持ちを託する」という意味の漢字です。
寓意とかいう言葉もありますね。

こういったprimitiveな昔話は、直接表現しにくい人間の大きなことを一つの具体化したモチーフに落としこんで表現する、という性質があります。

最後に音。
『かぐや姫の物語』は「プレスコ」という手法が使われています。
「プレスコ」はpre-scoringであり、映像を作ってから音をあとに収録する「アフレコ」after-recordingとは逆で、音を先に録ってから映像を描いて合わせる、という手法です。商業アニメはほとんど(というか全て)アフレコで行います。プレスコはあまりに「効率が悪い」作業です。

この手法は、「絵と音が分離している」ことを極限まで減らそうとしたアプローチでしょう。アフレコではどうしても完璧にリップシンク(Lip Sync. 唇と声を合わせること)できない。敢えて手間暇をかけてでも、そこを一致させたかった。



高畑監督は、
映像については「抽象性」
物語については「寓話性」
音声については「映像との一致」
を"選択"しています。

音声についてはもちろん、寓話的な物語に具体性を落とした映像を合わせるのはしっくりくる。
だから『かぐや姫の物語』はソニマージュなのです。
映像と物語と音声が混ざり合って一体となった作品なのです。
これを理知的に組み合わせている高畑監督は恐ろしい。




宮崎駿は「アニメ映画監督」、高畑勲は「アニメーション映画監督」だと思います。
なにが違うんだ!と言われかねない。でも全然違うんです。辞書の上ではアニメは単にアニメーションの略だけれど、今やアニメとは、「アニメーション」=連続した絵で動画に見せる手法の略ではなくて、その中でも(アメリカ・ディズニーから輸入され、日本を中心に)セオリーが固まってきた"様式"として「アニメ」ができました。

だから、「アニメ映画」と「アニメーション映画」って、そもそも言葉として全然別物なのです。
「アニメ映画」は、そうしてできあがった"アニメ"という、(キャラクターを持ち、物語があり、背景の上でセルが動き…)様式の、(長編で劇場で放映するという意味での)「映画」という言葉と組み合わせた言葉です。

「アニメーション映画」は、「映画」という芸術の中で、「アニメーション」という手法を使った作品、という意味で。

宮崎駿は『風立ちぬ』で、"アニメ映画"として作れるスペクタクルの一つの到達点に達した。それは堀越二郎という人物の物語が「動く」ムービーなのだ。

一方高畑勲は、『かぐや姫の物語』で、"アニメーション映画"として作れる膨大なイマージュの一つの到達点に達した。それは竹取物語という寓話の持つものが「映像と音声、一体になって伝わる」ソニマージュなのだ。

それがアニメーション映画『かぐや姫の物語』でした。















★第二章★ 「かぐや姫の物語」という物語

先に言っておきますが、「物語」を分解して説明する無粋な話です。
ここは飛ばして「まとめ」だけ読んでも十分だと思います。



「物語」は作品の要素であって、「作品全体」への考察は「物語」への考察ではないわけで…
さてこうしたソニマージュで語られた、竹取物語という「寓話」の示すものとはなんだったのか、です。

「かぐや姫」は何を象徴しているのか、と言われたらもう一言「女性」です。
かぐや姫は竹から生まれ幼少は山村で暮らし、周囲の男子から「たけのこ」と呼ばれる。
ここ、典型的な「男の子な女の子」です。ほぼ男の子扱い、というか異性という扱いではない。これって今の人間でもよくあることで、どこかしらで「女の子は女の子になっていく」。



えーっとエディプス・コンプレックスという言葉がありまして。
これはドイツの精神科医フロイトによって提唱された話であって、ざっくり話しちゃうと、(男子については省略します) 「女の子は自分は男ではないと知ったときに自分をこれこれこうする」という話です。ここ見てね

「なぜ自分は男(男性器を持つ存在)ではないんだ」という恐怖を女児は抱え、(これを去勢コンプレックスという)、そして、「それを受け入れコンプレックスとする」「いつか男になると思い、男性的な性格になる」「子供を持つことでそれを男性器の代わりとして補完する」という三パターンが生まれるわけです。

これって、女性が男性より劣っているみたいな読まれ方をされかねない危険な説なんですが…というか半ばそう言っているんですが…なんというか、貶める意味はなくて、「そうやって人間が形成される」という分析なので、堪忍してください。この説は賛否両論なんです。僕も『かぐや姫の物語』を語るには、より日本的な「阿闍世コンプレックス」のほうがええんじゃないかなーと思いつつ、とりあえず話が多すぎるので、一旦こっちは忘れてください。



エディプスコンプレックスの話です。
かぐや姫の行動はまさにこのあたりでごちゃごちゃ言えそうなので、僕はごちゃごちゃ言うのが好きなので言ってみます。

まず、かぐや姫は高位の者どもや、ひいては帝の妃になることを拒否します。途中で媼が「閨(ねや)」…とつぶやくシーンがありますが、ともかく妃になる→子供を作る、ということを示唆するシーンであって、かぐや姫は「子供を持つことで補完する」という選択肢を拒む。

そして、「男性的な性格になる」「コンプレックスとして持つ」の間で揺れ動く。前者は言うまでもなく「山村のときのようなお転婆な少女のままでいる」こと、後者は「翁のために"お淑やか"で"高貴な"女性になる」こと、この二つの間でかぐや姫は揺れ動きます。特に初潮を迎えたような示唆のあとからそれは強くなる。
かぐや姫が「自分は女である」という自覚を経てからの揺れ動きなのです。

「翁への愛情」もエディプスコンプレックスにおいては重要なアイテムなんですが、もう話がめちゃくちゃ長くなるので省きます。



「本物の高貴な姫君というわけではない」と翁が発言したときに、かぐや姫が衝撃のあまり飛び出して山村へと駆ける、というシーン…(このシーン、本当に凄かった)も、要は「愛情を向けていた父」のために「お淑やかな女性になる」ことを決めていたのに、それを「否定」されたショックで、もう一つの「男性的な自分」を象徴していた山村に戻る、というシーンですね。しかし結局夢だった。
この直後にかぐや姫は眉を抜きお歯黒を受け入れ、「お淑やかな女性」になる選択をします。

もう一つ、庭に山村のジオラマのようなものを作って愛おしむ描写があります。お淑やかな女性であらんとする中に、やはり「お転婆」である自分の欠片を捨てられない、という表現です。それを媼は「優しく一緒に見届ける」という、これが僕はもう一つの阿闍世コンプレックスという、日本女性の母への愛情、だと思います。

作画監督が美術手帖のインタビューで、「場面によって顔つきを描き分けている」と言っていました。女性的でやわらかなかぐや姫と男性的で険しい顔をしたかぐや姫の二種類の表情があるのも、この揺れ動きの象徴ではないでしょうか。

かぐや姫のその二つの揺れ動きがずっとテーマになり、ついに最後の捨丸との再会のシーンで、かぐや姫は「お転婆な自分」、「男性的な自分」を選択する、のです。



この「男性的な」ということを、専門用語で「ファルスを持つ」とも言うんですけど、「ファルスを持つ女性像(ファリック・ガール)」というのは、日本のアニメや漫画でとっても多く出てきますね。セーラームーンとかラムちゃんとか、ナウシカとか、いろいろ。斉藤環の言うところの「戦闘美少女」って、それなんです。
かぐや姫が天女の力で空を飛ぶような描写も、その「戦闘美少女」的な描写かなあ、と思っていました。というかこのあたりの話はユリイカ12月号の氏の評論を読むと詳しいです。

かぐや姫の犯した「罪と罰」については、まああんまりよくわかりませんでした。いろいろ解釈があると思います。最後のあの記憶とともに感情を失ってしまう感じが「罰」だとしたら、「罪」はなんなんだろう。って感じです。



以上、『かぐや姫の物語』とは一人の女性が誇り高く、また苦悩に満ちて、「自分というもの」を見つけていく物語です。男性、女性、母、いろいろな選択肢が女性の前に立ちあがる、そこで戦う女性の物語です。
それは古典だけでなく、現代の女性にも通じる。かぐや姫だけが目がパッチリとした「いまどきのアニメ顔」で描かれていたのも、この古典に描かれた「女性」の物語を、現代の女性像にもリンクさせようという意志にも見えます。












★まとめ★ 『かぐや姫の物語』という映画

「かぐや姫の物語」は、女性が女性となる過程での葛藤や誇りの込められた「竹取物語」という古典の寓話を、水彩というタッチや声にこめて、一つの「ソニマージュ」として高畑監督が「見事に構成した」映画です。
あまりに見事すぎて、結局「すげーー」しか言えないんですが、その「すげーー」をちょこっと分解すると、こういう話になりました。

あの御付きの人のフィギュア作ったら売れそうなんだけどな。

おわり










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